アトリエとしてのKALS――O JUN先生インタビュウ【1】

Aセメスター木曜日5限の駒場アクティブラーニングスタジオ(KALS)。窓の外が暗くなっていくなか、20名ほどの学生達が一心不乱に絵を描いています。文理融合ゼミナール「絵の授業」の時間です。授業が進むにつれ、KALSが、さながらアトリエの様相を呈してきました――こうしたユニークな授業を担当されているO JUN先生に、お話を伺いました。

【インタビュウ概要】
日時:2021年12月9日
話し手:O JUN(文理融合ゼミナール「絵の授業」担当、東京藝術大学名誉教授、画家)
聞き手:中村長史、中澤明子(教養学部附属教養教育高度化機構)

【インタビュウ目次】
1.授業の目的・到達目標
2.評価の方法
3.東大教養学部という環境
4.プロの作家による実技指導
5.授業設計・実施における工夫

1.授業の目的・到達目標

中村 東京大学の教養学部で実技指導の授業をご担当いただくのは初めてですが、これまで先生が教えてこられた藝大や美大と何か勝手が違うといった点はあるでしょうか。
O JUN 恐らく、受講している学生たちの動機は様々だろうと思います。中学校高校とずっと絵が好きで描いてきて、かなり技術的に高い学生も若干いますし、イラストが好きで描くことに興味を持っているので受講しているという学生もいますし、そういうものからずっとかけ離れたことをやっていたので、ちょっと受講してみるという学生もいます。美大を受験するとか、美術機関のようなところに作家として入っていくためのトレーニングとなると、別なカリキュラムが必要になってくると思いますけども、この授業では、自分の体と素材、画材とを接触させることの体験に重きを置いています。そういった身体的・感覚的な体験をするのにはドローイングが最適だろうということで、今やっています。
中村 今まさしく授業を通して学生に学んでほしいこと、授業の目的や到達目標をおっしゃっていただいたかと思います。学生の動機や知識、技量がばらばらな中で、共通して目指すのはそういった身体的・感覚的なことの体験で、細かい技術についてはまた別の機会にということでしょうか。
O JUN そうですね。あとは、一般的な美術の知識や絵の見方については授業の中で少しフォローできればなと。幸いこのKALSという教室には大きなスクリーンが四面にありますので、いろいろな画像や動画を資料として引用して、これから学生たちに紹介していこうかなと思っています。
中村 そういった知識の面と、体験の面とは、学生達の様子を見ながらバランスよく。
O JUN そうですね。それが理想です。

KALSのスクリーン

2.評価の方法

中村 そういった目的・到達目標を踏まえて学生のパフォーマンスをどう評価するかについても伺いたいと思います。素人考えだと、知識の方は問い方次第では評価しやすいのかもしれないですけれども、体験の方はなかなか評価するのが難しいのではないかなと。
O JUN 作品のテクニカルな面での出来不出来で成績を付けるとすれば非常に楽です。ただ、この授業で一番大切な部分というのは、もうちょっと下のほうに潜んでいるという感じがします。モティベーションの問題であるとか、身体性の問題とか。たかだか1枚の紙の上に、鉛筆なり何なり簡単な素材でそれが表れているかを見たいなと。1週間ごとの授業にまず出席してもらって、頭を切り替えてリラックスして線を描いたり点を打ってみたりという―非常に単純素朴な制作行為ですけれども―そうしたことを毎週やっていくなかで描くものの中に変化がもたらされているかどうか。1人ずつの制作の進捗状況を毎週眺めていって、最終的にドローイング展のようなことをできればと思っています。
中村 学生の作品の展示ということですね。
O JUN はい。最後の授業で「1日だけの展覧会」ということで行ってみたいと。基本的には、授業に出て一生懸命毎回毎回描いて―うまくいこうがいくまいが―いろんなものに興味を持ってやってくれていれば僕は高評価します。美術というものはそういうものかなと思います。不可というのは普通に出ていればありえません。また、見事に描けたとか、そっくりに描けたから優というものでもありませんし。一人一人の学生が、自分が描こうとしているものとか、描きたいという気持ちとどう向き合っているかという部分を評価してあげたいなと思います。
中村 共通のものさしで測るというよりは一人一人の制作姿勢を見てということですかね。
O JUN そう思います。ええ。
中澤 見るときのポイントは、どういったところにあるのでしょうか。
O JUN 今日1日やったらここまで進んだ、また次の週やればここまで進んだというふうに非常にリニアな矢印が描ける部分も制作の中にはあるのですけれども、むしろ先週はちょっと見つからなかったのだけれども今日こういうことが気になったとか、そういう部分が見られたらそれは非常に評価したいですね。必ずしもちゃんとれんがを積むようにはいかなかったのだけれども、今日見つかったことに対して一生懸命いろいろなところからアプローチしてみたという。
中澤 それは学生と対話する中で先生ご自身が把握されていくのか、あるいはもう作品だけを見ていたら分かるものなのでしょうか。
O JUN いや、やっぱり作品だけでは、描かれたものっていうものだけで全て分かるものではなくて。だからこれが例えばコンクールとか、そういったコンペのようなものでしたら作品しかないのですけども、目的がまずそれではないっていうことと、この授業というのは一応指導する私がいて学生がいてという、同じ時間を同じ場所で共有しているので、そのやりとりがやはり重要だろうと。
中村 20人いる学生の一人一人をきちんと、成果物だけではなくてプロセスも見るというのは大変ですね。
O JUN 美術というものはあってないような枠組みなので。絵を描いていれば美術ではあるけれども、日常の生活の中でも、ものを見るということ、それから触るということが常にあるわけです。それが絵を描いたりものを作ったりという創造的な行為に返ってくるものですから。
中村 授業の中だけでは完結しないということですかね。学生が教室の外でも、道を歩いているときでも、今までは気付かなかったこと、例えば葉っぱの色が少し変わったのではないかしらんと敏感になるとか。
O JUN おっしゃるとおりだと思います。だからこれによって、この授業によって作家になるとか美術のほうに進むとかってことではなくても、日常的なものの見方とか感じ方とか、そういったものに少し影響なり反映するようなことがあれば、小さいことのようで結構大きいのかなという気がします。今は気付きとか学びとか、ちょっと耳にたこができるぐらいよく聞く言葉ではありますけれども、どこで何を気付くのかは大事かなと思います。自分が今いる空間だとか、もうちょっと広がって社会であるとか、その中で見つけたもの、触れたものが、どう自分の考え方を刺激するか。人は移動するものですから、移動した先でまた違った体験をする。そういうことの何かトレーニングみたいな部分が大きいのではないのかなと。そういう当たり前のことをちょっと取り出して、それを授業の中で絵を描くという行為に変換させて、それをもう一度また家に帰って全然違うことをやったときに、どこかでぴんときたり、これは覚えがあるのだけれど何かしらみたいな感じで振り返ったり、そういう時間がちょっとでもあるとまた違うのかなと。


3.東大教養学部という環境

中村 冒頭でも様々なタイプの学生が授業を受けているというお話がありましたが、教養学部で授業を始められて何かお感じになることはありますか。
O JUN ガイダンス後に受講者数を制限しなくちゃいけないということで、こちらから受講希望理由等について質問を出してそれに対して答えをくださいと。それに対しての答えが、質問の意図を汲んだものになっていて、なかなかやっぱりしっかりしているなと。内省的なことだけではなくて、もうちょっと外在的なことも含めて、これこれこういう理由で受講してみたいと。そこら辺が総じてしっかりとした回答が届いたものですから、1人も落としたくないなと思いました。
中村 動機は人それぞれだったけれども、動機を明確に伝えてきてくれるという点では皆同じだったと。
O JUN そうです。そういうところはさすがだなと思いましたね。そういう学生達を見て、今度は慣れない絵を描くということを始めたときに、どういう変化や戸惑いが起こるのかな、少しは新鮮な体験になるのかなと期待しています。美術というものは、相手に伝えるということだけが使命じゃないので。伝わらなくても、何かが見えたり感じたりすることで面白い。そういった体験もしてもらいたいなと思います。
中村 僕は政治学者として社会科学系の論文を書くゼミを担当してまして、僕なぞの授業だと、一定の知識を有する読者であれば誰が読んでも一つの理解に達するような文章を書きましょうという指導をするわけですが、美術の場合、当然それに閉じないわけですね。
O JUN そうですね。
中村 そういった意味では文理融合ゼミナールで美術の授業があるのはいいことですね。
中澤 そうですね。私の授業でもディスカッションをしてもらうと、答えのない議論が難しいという反応があったので、それともちょっと通じるのかなと。アートにも答えがあるわけではなくて、自分の中との対話のようなものが必要になってくるので、東大生にはいい経験なのかなと思いました。
O JUN 絵を描くとかドローイングするということは、事前のトレーニングがない状態で始めた場合、習熟していないですから、描き間違えとか描き切れないとか技術的な点は、学生の中でストレスになる部分があるかと思います。それでも描いてしまったものというのは、1つの答えなのですよね。出来が悪いなと自分で思っていれば、そこから、じゃあ次どうするのかという。描法だとか、あるいはものの見方をもうちょっと変えてみるとか工夫が必要だなというところにいけば、また変化もしてくるだろうし。そういった間違いみたいなものというのはむしろ大歓迎といいますか、一つの結果なので、そこから次のことが始まる、見えてくるということを体験してもらいたいなと。僕らもそうなので。

【2】に続く